爆笑問題・田中裕二のエピソード集
2012.11.22 (Thu)|
・高校時代は太田と対照的に人気者で、「ウーチャカ」という愛称で「ウーチャカ大放送」という校内ラジオ放送のパーソナリティをやっていた。全校生徒によるアンケートで「ミスター井草」にも選出されたこともあった(田中裕二 (お笑い芸人) - Wikipedia)。
・「ウーチャカ大放送」のテープを、爆笑問題結成初期の時代、自動車に乗るたびにカー・オーディオで太田に聞かせていた。その内容は、2008年6月27日のコンビ結成20周年記念となった『爆笑問題の検索ちゃん』(テレビ朝日系)にて放送され、不評だった。
・早稲田大学教育学部も受験したが、受験日を1日間違えるという致命的な失敗を犯してしまった。その失敗の教訓を得てか、一浪を経て、日本大学藝術学部(日芸)演劇学科に合格し(十数年後にテレビ番組で、本人は大学に落ちたものだとばかり思っていたと告白)、太田と出会う。日芸時代でも田中本人が「ウーチャカ」と呼んでくれるよう周囲に頼んでいたが、「小僧(先輩)」とも呼ばれていたという。
・日芸在籍時には、マキノ雅弘が主催していた私塾にも通っていた。
・大学の先輩とお笑いコンビ「東京ギャグポンプ」を組んでTBSの昼の番組のレギュラーを持っていたが、売れずに2か月弱で解散。当時の芸名は「白木屋みのる」(背が小さいことから白木みのると居酒屋の白木屋をもじってつけられた)で、ボケ担当。コンビ名・芸名を考案したのははらみつお。当時の相方は編集者(2006年時点)をしている。
・1988年3月に漫才コンビ「爆笑問題」を結成。コンビではリーダーを担当しているが、田中が自ら立候補したのではなく、太田が決めたものである。
・2000年正月放映の『号外!!爆笑大問題』(日本テレビ系)で、田中が所属事務所が入居しているビルの1階の花屋に勤務する9歳年下の女性の自宅を訪れ、両親にあいさつしたと太田がバラし、メディアが一斉に扱った。同年3月24日にその女性と結婚。その後、二世帯住宅を建てた。
・2000年9月12日、睾丸肥大のため都内の病院に入院。10月9日に左側の睾丸摘出手術を受けた。ちなみに摘出した睾丸を病理診断・研究したのは向井千秋の夫である向井万起男(慶應義塾大学病理専門医)だったとのこと。
・2009年10月2日、自らの離婚を発表した。その後、前妻が臨月に入っていることが報じられた。
・『とくダネ!』(フジテレビ系)のオープニングトークで、司会の小倉智昭がワールド・ベースボール・クラシックの対大韓民国戦アジア決勝にて「あそこでなぜ、イチローを走らせなかったのか」と、原辰徳の指示が盗塁についてなかったことを批判したことに対し、「お前(小倉)なんかより原監督の方が詳しいよ。原監督はもちろん盗塁も考えただろう。その上で、盗塁を指示しなかったんだよ」と発言した(爆笑問題・田中「小倉智昭は恥知らず」)。
・実兄は「コム・デ・ギャルソン オムオム」のデザイナーを務め、現在は自ら立ち上げたブランド「KONTRAPUNKT(コントラプンクト)」のデザイナーである田中啓一。実姉は同じくデザイナーで「アツキオオニシ」や「ピンクハウス」を手がけた田中里美。父は自ら立ち上げた「人類生き残り研究会」の会長。母方のいとこにならはしみきがいる。おばは東京都杉並区阿佐谷にある商店街「阿佐谷パールセンター」の名付け親で、親類の結婚に絡んで、東條英機が遠戚にあたるようになった。
・視力は0.1未満で、コンタクトレンズを使用している。眼鏡をかけてテレビに出演することもある。
・散歩中に便意をもよおした田中が、太田の家にふらっと立ち寄り、トイレを借りた。その際、自動で便座カバーが下りることに気づかなかった田中は、そのまま大便をしてしまった。そのことをラジオ番組まで黙っていた(爆笑問題・田中 「太田に今まで黙っていた秘密」)。
・普段は太田のことを「光」と呼ぶ。仕事のときに「太田さん」と呼ぶのは、仕事とプライベートの区切りをつけるためであると本人が語っている(爆笑問題「相方の呼び名の使い分け」)。
・2012年11月13日、伝染性単核球症で体調を崩し緊急入院。当日深夜の『JUNK・爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)から出演を取りやめた(爆笑問題・田中「伝染性単核球症で入院していた」)。
・一般的に太田は変わった人物で、田中はまともで普通の人間というイメージを持たれることが多いが、伊集院光からは「太田さんは変な人、田中さんは化け物」と称された(爆笑問題・田中の作られ方)。
・『JUNK 交流戦スペシャル』(TBSラジオ、2006年8月31日)では、仕事がなかった時代に草野球で伊集院に対し「毎日野球できるから楽しくてしょうがないんだよ」と発言したエピソードを紹介し、普通のお笑い芸人なら持っているはずの危機感を持たない田中を総じて、そう表現した(爆笑問題・田中「小倉智昭は恥知らず」)。
・また、『爆笑問題のニッポンの教養 放送100回記念スペシャル「爆問学問」学』(NHK総合、2010年2月2日)では同じく伊集院に「この番組見ててすげえと思うのは、太田さんと各界の知識人が凄いレベルの高い話をしてて、剣豪同士の斬り合いをしてる中、田中さんは普通に『すいませんボール取らしてください』つってひょいっと入って行けて、しかも斬られないんだよね」と評される。
・初体験を迎えたのは、25~26歳。太田光らに半ば無理矢理、歌舞伎町のソープ『ドンファン』に連れて行かれ、初体験を済ませた(爆笑問題・田中の初体験エピソード)。
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・「ウーチャカ大放送」のテープを、爆笑問題結成初期の時代、自動車に乗るたびにカー・オーディオで太田に聞かせていた。その内容は、2008年6月27日のコンビ結成20周年記念となった『爆笑問題の検索ちゃん』(テレビ朝日系)にて放送され、不評だった。
・早稲田大学教育学部も受験したが、受験日を1日間違えるという致命的な失敗を犯してしまった。その失敗の教訓を得てか、一浪を経て、日本大学藝術学部(日芸)演劇学科に合格し(十数年後にテレビ番組で、本人は大学に落ちたものだとばかり思っていたと告白)、太田と出会う。日芸時代でも田中本人が「ウーチャカ」と呼んでくれるよう周囲に頼んでいたが、「小僧(先輩)」とも呼ばれていたという。
・日芸在籍時には、マキノ雅弘が主催していた私塾にも通っていた。
・大学の先輩とお笑いコンビ「東京ギャグポンプ」を組んでTBSの昼の番組のレギュラーを持っていたが、売れずに2か月弱で解散。当時の芸名は「白木屋みのる」(背が小さいことから白木みのると居酒屋の白木屋をもじってつけられた)で、ボケ担当。コンビ名・芸名を考案したのははらみつお。当時の相方は編集者(2006年時点)をしている。
・1988年3月に漫才コンビ「爆笑問題」を結成。コンビではリーダーを担当しているが、田中が自ら立候補したのではなく、太田が決めたものである。
・2000年正月放映の『号外!!爆笑大問題』(日本テレビ系)で、田中が所属事務所が入居しているビルの1階の花屋に勤務する9歳年下の女性の自宅を訪れ、両親にあいさつしたと太田がバラし、メディアが一斉に扱った。同年3月24日にその女性と結婚。その後、二世帯住宅を建てた。
・2000年9月12日、睾丸肥大のため都内の病院に入院。10月9日に左側の睾丸摘出手術を受けた。ちなみに摘出した睾丸を病理診断・研究したのは向井千秋の夫である向井万起男(慶應義塾大学病理専門医)だったとのこと。
・2009年10月2日、自らの離婚を発表した。その後、前妻が臨月に入っていることが報じられた。
・実兄は「コム・デ・ギャルソン オムオム」のデザイナーを務め、現在は自ら立ち上げたブランド「KONTRAPUNKT(コントラプンクト)」のデザイナーである田中啓一。実姉は同じくデザイナーで「アツキオオニシ」や「ピンクハウス」を手がけた田中里美。父は自ら立ち上げた「人類生き残り研究会」の会長。母方のいとこにならはしみきがいる。おばは東京都杉並区阿佐谷にある商店街「阿佐谷パールセンター」の名付け親で、親類の結婚に絡んで、東條英機が遠戚にあたるようになった。
・視力は0.1未満で、コンタクトレンズを使用している。眼鏡をかけてテレビに出演することもある。
・散歩中に便意をもよおした田中が、太田の家にふらっと立ち寄り、トイレを借りた。その際、自動で便座カバーが下りることに気づかなかった田中は、そのまま大便をしてしまった。そのことをラジオ番組まで黙っていた(爆笑問題・田中 「太田に今まで黙っていた秘密」)。
・普段は太田のことを「光」と呼ぶ。仕事のときに「太田さん」と呼ぶのは、仕事とプライベートの区切りをつけるためであると本人が語っている(爆笑問題「相方の呼び名の使い分け」)。
・2012年11月13日、伝染性単核球症で体調を崩し緊急入院。当日深夜の『JUNK・爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)から出演を取りやめた(爆笑問題・田中「伝染性単核球症で入院していた」)。
・一般的に太田は変わった人物で、田中はまともで普通の人間というイメージを持たれることが多いが、伊集院光からは「太田さんは変な人、田中さんは化け物」と称された(爆笑問題・田中の作られ方)。
・『JUNK 交流戦スペシャル』(TBSラジオ、2006年8月31日)では、仕事がなかった時代に草野球で伊集院に対し「毎日野球できるから楽しくてしょうがないんだよ」と発言したエピソードを紹介し、普通のお笑い芸人なら持っているはずの危機感を持たない田中を総じて、そう表現した(爆笑問題・田中「小倉智昭は恥知らず」)。
・また、『爆笑問題のニッポンの教養 放送100回記念スペシャル「爆問学問」学』(NHK総合、2010年2月2日)では同じく伊集院に「この番組見ててすげえと思うのは、太田さんと各界の知識人が凄いレベルの高い話をしてて、剣豪同士の斬り合いをしてる中、田中さんは普通に『すいませんボール取らしてください』つってひょいっと入って行けて、しかも斬られないんだよね」と評される。
・初体験を迎えたのは、25~26歳。太田光らに半ば無理矢理、歌舞伎町のソープ『ドンファン』に連れて行かれ、初体験を済ませた(爆笑問題・田中の初体験エピソード)。
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