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伊集院光のエピソード集

2012.11.20 (Tue)|
・父は医薬品企業ライオンの研究員であり、日本初の女性用生理用品「アンネナプキン」等の開発を担当した(伊集院光 - Wikipedia)。

・伊集院は四人きょうだいの次男で兄・姉・弟がいる(伊集院光 - Wikipedia)。

・高校受験に失敗し、すべり止めで足立新田高校に入学。部活動(野球部)を除いてあまり真面目に通わないようになり、アメ横の店員、スーパーの店員(惣菜製造など)といったアルバイトをしていた。

・1984年7月、不登校がちだったことを案じられて、父親の知り合いである吉河さん(後に大師匠である5代目三遊亭圓楽の実弟であることが判明)の紹介により、圓楽一門へ入門。三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭圓楽)の弟子となる。三遊亭 楽大(さんゆうてい らくだい)として活動をはじめる(昼飯の弁当は師匠である楽太郎本人が毎朝作っていた)。 その後、高校を卒業間近である3年生の2月(ただし、本人曰く3年次はほとんど出席していなかったため、卒業に必要な出席日数を確保していたかは不明)に中退。

・「伊集院光」の名でラジオ番組に出演し始める一方で、1988年に二つ目昇進。入門5年目の同年には第17回NHK新人落語コンクール(現:NHK新人演芸大賞「落語の部」)本選に「子褒め」で出場を果たしている(他の本選出場の4人はいずれも修行年数が10年以上)。楽太郎から伝授された噺は40-50席以上。 楽太郎の弟子という関係で、日本テレビの番組「笑点」の「若手大喜利」にレギュラー出演していた。

・1990年、「三遊亭楽大」の名ではなく「伊集院光」の名で人気を博し、脚光を浴びていたラジオ番組出演が一門に知られ問題となる。話し合いを重ねた結果、落語家としての籍を離れる(破門ではなく自主廃業)。この時、楽太郎は伊集院を擁護し、2003年4月には三遊亭楽太郎一門会へ出演させ、ラジオやテレビでの共演もあり、楽太郎は未だに身内として扱っている。また伊集院本人も楽太郎のことを「師匠」と呼び敬意を払っている。

・現在、三遊亭楽大の名は楽太郎門下の他の落語家に受け継がれている(三遊亭楽大 (2代目)を参照)。通常、廃業した人間の名は余程のことがない限り継がれないが、この名を継がせることに関しては、楽太郎から伊集院に説明があったという。
・伊集院光の名でニッポン放送のお笑いオーディション番組『激突!あごはずしショー』(1987年10月 - 1988年3月)に出演(2度目の挑戦では綾小路遥を名乗ったこともある)。当時のキャッチフレーズは「オペラ座の怪人」を捩った「オペラの怪人」。タキシードで正装し、威風堂々と「オー・ソレ・ミオ」を「恐ぉ~れ山のイタコ」、「鰹風味のほんだし」(味の素「ほんだし」サウンドロゴ)を「鰹風味のふんどし~」、「静かな湖畔」の歌詞を「静香の眉間にシワがある~、クドークドー」など、替え歌ギャグをオペラ調に歌うギャグオペラ歌手(後に「オペラの怪人」と自称)という肩書きだった。

オペラ歌手と名乗っていた当時は、「足立新田高校声楽科中退」した後イタリアに留学し、ルチアーノ・パヴァロッティに師事していたと語ってしまったため、ある程度オペラについての知識を勉強せねばならず苦労したという(足立新田高校に声楽科は存在しない。無論、イタリア留学やパヴァロッティに師事したという件も嘘である)。本物のオペラ歌手だと間違われて、オペラのCDのライナーノーツの依頼があって恐くなったという逸話もある。ホリプロ移籍以降ギャグオペラ歌手を名乗っていない。

・『あごはずしショー』出演は、元兄弟子の初代三遊亭花楽京(現放送作家:石田章洋)からの誘い(ただし、人数合わせのサクラに近い)によるもので、伊集院光という芸名は落語家という身分を隠すために同番組のディレクター安岡喜郎が考案したものである。

・『あごはずしショー』終了後は『山口良一のそれゆけ!土曜日行進曲』のレポーターなどを経て、1988年10月より同局の『伊集院光のオールナイトニッポン』に出演。1989年10月より『あごはずしショー』で共演した岩井富士夫が担当する『CREATIVE COMPANY 冨田和音株式会社』(CBCラジオ)に週1レギュラーで出演(以来、名古屋でも断続的にレギュラー番組を持つようになる)。

・『オールナイトニッポン』では番組内から生まれた架空のアイドル・芳賀ゆいが話題になるなど、次第にコアな人気を集めていく。その後、平日夜の人気番組だった『三宅裕司のヤングパラダイス』の後番組パーソナリティの最終選考(2名)に残った。選ばれたのは内海ゆたおだったが、内海が精神的なプレッシャーのため11ヶ月で降板し、『伊集院光のOh!デカナイト』が開始されることとなった。

・『Oh!デカナイト』は4年余り続く人気番組となるが、1995年4月に降板した。当時ニッポン放送のスタッフと意見の相違から対立していた。険悪な関係は続き、降板が決まった時期に、TBSテレビで昼の帯番組として放送された『素敵な気分De!』を手掛け伊集院と面識のあったTBSの永田守プロデューサーが生放送中のスタジオへ来訪。コーナーの間の曲が流れている短時間にスタジオに入ってきて、「やめるんでしょ? TBSでやろうよ、なんなら来週からやろうよ、番組のタイトルも考えてあるから」と強引な引き抜きをした。番組が終わると永田はニッポン放送のスタッフにピザを振舞って詫びていたという。

・『Oh!デカナイト』の番組後期にヘルニアで入院した際「スタッフが一人も見舞に来なかった」とネタにすることもあった。そのため、一夜限りの復活として開局50周年記念日スペシャル番組の中で『Oh!デカナイト』を放送する2004年までは出入り禁止となり、ゲストにも呼ばれなかった。

・1995年10月からTBSラジオの深夜番組『深夜の馬鹿力』を開始し、主なラジオでの舞台をTBSラジオへ移す。

・TBSラジオでの活動は、いくつかの受賞歴がある。2000年には小桜局長がコロッケパーティーを開催(ナイスプレー賞受賞)。2001年にはTBSラジオから「ゴールデンマイク賞」を授与されたが、トロフィーを自局の番組でリスナーにプレゼントしようとし、局長から止められた。

・2003年には放送批評懇談会から「ギャラクシー賞DJパーソナリティ賞」を授与され、その授賞式では『深夜の馬鹿力』番組内の企画として成人用紙オムツを装着し、壇上で放尿しながら受賞スピーチをした。また、『日曜日の秘密基地』の2006年2月のスペシャルウィーク企画「どこの誰かは知らないけれど、話してみたらスゲー人スペシャル」にてギャラクシー大賞ラジオ部門を受賞。

・叶姉妹の姉こと恭子(小山恭子)が、父親である小山輝男に暴力をふるわれた事件が公になる前に、恭子を中傷したビラが貼られているのを実際に目撃していた。

・Mr.childrenの桜井和寿に「『僕らの音楽』で対談を」と指名されていた(伊集院光、Mr.children桜井和寿氏に指名される)。

・アンタッチャブル・柴田英嗣が干されていたワケについて「柴田にお灸を据えようと思って、元々の事務所の今の社長の上の大社長が、ちょっと厳しく行き過ぎたんですよ」と語っていた(伊集院光が語る「アンタッチャブル・柴田が干されてたワケ」)。

・噺家を辞めた理由について、「僕自身も、それこそ談志師匠の落語とか長いものを聞いても、『もう何十年かすれば、俺もこうなる』って勝手に思ってるところがあって…それで6年修行した結果、ある程度、慢心しているところを楽太郎も見抜いたと思うんですよ。それで、談志師匠の雛鍔(ひなつば)のテープを聴かせていただいて。スゴイ若い頃の。そんときに雛鍔って話は、スゴイ簡単な話だって思い込んでたのが、談志師匠の雛鍔が全然違ってて。それで、ちょっとノイローゼっぽくなって、そこで越えれば良い壁だったんですけど越えられずに、終わってしまったというか…」と語っていた(伊集院光・立川談志との対談「噺家を辞めた理由」)。

・後輩から誕生日プレゼントにびわゼリーをプレゼントされ、その自分への無関係さ加減に疑問をもち、ラジオ番組で誕生日プレゼントなどの贈り物について滔々と語っていた(伊集院光が語る「プレゼント選びで必要なこと」)。

・落語家時代、師匠に宝くじを買ってお歳暮としたことがあった。「私は師匠に、いつもの御恩からいったら、一億円差し上げたいんですけど、お金がないんです。なので、お百度参りをしてきましたので、これは確実に当たると思いますので」という洒落を添えたという(伊集院光「落語家時代に学んだプレゼントの贈り方」)。

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タグ : 伊集院光

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